鍼灸師紹介
初めまして、北京堂鍼灸院の院長 吉村高福です。

1985年、新潟県の十日町という雪深い地方に生まれました。本当に雪が多く、多い年は3~4mも積もる事もあり、学校に行くのにバスが1時間も遅れる事がよくあるくらいの田舎でした。
今は雪も少なくなり、少しさみしく感じますが、毎年なんとか雪まつりは行っているようです。
高校を卒業して一度は中国料理の調理師の道を志します。ですが、20代前半のなんともない朝に起きた時、生まれて初めてのギックリ腰を起こしました。 最初は病院に通い、レントゲン、MRIで確認してみたところ「特に何ともないので湿布を貼って横になっていなさい。」と医師に言われましたが、2週間してもなかなか良くならず、足も痺れはじめました。
これは不味いと知り合いに相談したところ、評判の良い接骨院がありましたのでそこに通い、半2か月ぐらいかけてある程度良くなりました。
ですが、痛み自体は3年ほど出たり消えたりして、結果的にはハードすぎる調理師(当時はホテルの中国厨房で長い日は18時間くらい仕事をしていた事もあり)では耐えられずに転職を決意しました。

その後、自分の症状を改善してもらって良いイメージだった柔整師になろうと考え、夜は働きながら昼は学校へと3年間をやりぬきます。
その際にクラスメイトの鍼灸師から鍼の効果の良さや有用性について聞き、治療効果に対して貪欲な私はそのまま鍼の勉強するため鍼灸学校に行くことを決めました。
鍼灸の免許は伝統校である東京衛生学園専門学校を出て、国家試験に合格しました。この学校は学費も高いですが、勉強する学生にとってはとてもいい場所です。
図書室には約2000冊以上の医学書、2000タイトルのビデオ、DVDがあり、確認したい事は何でも調べれて、鍼灸の練習については、鍼やもぐさの使い放題で、ほぼ毎日練習のために実技室が解放されていました。

東京衛生学園時代は昼間に鍼灸整骨院で働き、勉強の為に夜は薬局でアルバイトもしていました。おかげで骨、筋肉等や薬について詳しく知ることが出来ました。
この学校の良いところは、ひとつの流派だけで無く、いくつもの鍼の流派を体験させて、自分の求める効果的な流派を選ばせる事です。
しかし、私は自分が求める効果が出せる流派が見つからず、卒業後はどうしようか迷っていました。
そんな時、卒業論文の為に「頭皮鍼の有用性」についてレポートを作っていた際に、浅野周先生の「頭皮鍼治療のすべて」という本に出会います。

この本には日本、中国の頭部に行う鍼の流派の特徴や違いが書かれていました。この本で論文もはかどり、さらに浅野先生の本を読みあさると、驚くような施術方法が載っていました。
実際にこの施術を見たいと思い学校の卒業生や先生に聞いて、三鷹にいる事を知り、見学を頼み込みました。が、他の見学者も順番待ちだった為、無理だとあっさり断られました。
ですが、浅野先生の書籍を読んで、自分の求める治療だと確信している私は、見学がダメなら施術を受けて勉強しようとしつこく頼みこみました。
浅野先生の鍼灸施術は衝撃的で、鍼を受けた感覚もその後の効果も、他の流派の鍼とは全く違い、理論も根拠に基づいた内容で、目の前が開かれるような感覚でした。
その後、施術のたびにクラスメイト達を連れて行き、施術をしているところを見て、そのあと施術を受けながら質問等をしていました。
施術のたびに見学をお願いすると、やっと先生も折れてくださり、週一で見学を許され、鍼灸整骨院で働きながら休みの日は通うことになりました。

鍼灸接骨院での鍼施術も応援していただき、オートクレーブ等の必要器具を無料で貸し出してくださったので、鍼灸整骨院では出来るだけ北京堂と同じ施術を行う事が出来ました。
その後、鍼灸整骨院の鍼の患者は前任者の二十倍近い人数になり、経験も自信もしっかり得る事が出来ました。 転機とはいきなり訪れるもので、北京堂松江院の院長が東京に戻るとの事で、急遽見学者から弟子になることになります。
ただ浅野先生のところに行ける間は、出来るだけ先生の施術を見たいので、休みをすべて見学にまわし、経験を増やすために夜も往診を行っていたので、今まで生きてきて一番ハードで濃密な時間になりました。
島根に来てからは前任者の岩淵先生との引き継ぎも終わりまして、H25年より北京堂鍼灸院 松江を任されました。

現在、松江院を兄妹弟子に引き継ぎ、H29年4月から新潟市西区寺尾にて新たに鍼灸院を開設。島根での経験を活かしより効果的な施術を目指し日々頑張っています。
